今日は、花見ウオークの京都市街地編を行ないました。
日本各地から、時には新幹線や飛行機に乗って観光客が見にやって来る桜の花の時期の山紫水明の地・京都。
その京都の桜の花を堪能しました。
本日のウオーキング歩数、42,072歩。
2008年3月28日(金)
六地蔵を起点にまずは「狸寺」を目指します。
途中でこんな看板を見かけました。
まむしはこの絵のようなとぐろを巻かず、S字型にくねっていていざという時にはジャンプして相手を攻撃します。
この絵を見た子どもなどがとぐろを巻いたヘビだけに気をつけることがないかちと心配。
西運寺着。
別名「狸寺」です。
境内の大きな狸の焼き物。
江戸時代、この寺の裏山から夜な夜な出てくるタヌキが悪さをして人々は困っていました。
住職は人々のためにも何とかしなくてはと思いましたが、まさか殺生をするわけにはいきません。
そこで住職を一計を案じ、タヌキに餌付けを行ない、そして説教をしました。
するとタヌキは悪さを一切しなくなったばかりか住職になつき、住職が「八」とタヌキの名前を呼んで手を叩くと姿を見せるまでになりました。
娯楽が少なかった頃のこと。
タヌキのことを聞きつけ、「八公」と名づけられたメス狸を見るため多くの見物人がここ西運寺にやって来ました。
そしてこの西運寺はいつしか「狸寺」と呼ばれるようになりました。
寺の近所に住んでいた名陶芸家「道八」が「八公」の等身大の像を作り、それを寺に寄進。
その狸の像は信楽焼きの狸のモデルになったともされています。
本堂にお参り。
西運寺は次第に廃れていきましたが、明治になって寛兆和上が就任し本堂や庫裏を大改修し書院も新築し寺を再興。
そして狸の言い伝えを知った寛兆和上が狸の置物を集め始め、今に至っているのです。
西運寺をあとに。
西運寺をあとにして北上。
銀葉アカシア(ミモザ)の花が鮮やか。
スーパーのフードコートで昼食。
このカツ丼セットはご飯が大盛りで750円!
撞木町(しゅもくちょう)廓碑。
ここ撞木町遊廓は、1604年に設けられました。
伏見の発展と共に元禄期に最盛期を迎えたこの廓は、赤穂浪士を率いる大石蔵の助が敵の目を欺くためここで遊んだふりをしたことでも知られます。
撞木町をあとに。
関西電力墨染発電所。
琵琶湖疎水の水を利用していますが、この水は京都会館前の疎水から流れてきています。
冬場は完全にこの水がなくなるのですが、2週間ほど前からまた通水が始まり満々とした水が流れています。
京阪電車本線の線路下通過。
疎水沿いのソメイヨシノが早くも二分咲き。
とっても爽やかな疎水沿いの遊歩道。
名神高速下を通過。
桜のトンネル。
美しいソメイヨシノの花。
ユキヤナギも満開。
右手にJR稲荷駅の駅舎を見ながら速歩。
奈良線の下り列車。
単線の奈良線ですがごく一部だけは複線。
京都〜稲荷間はその複線区間なのです。
伏見稲荷大社前通過。
東福寺着。
経堂。
通天橋を望む。
カエデの新芽も膨らんできました。
東福寺をあとにして更に北上。
寶樹寺前へ。
ここ寶樹寺の薬師如来坐像は俗に「子育て常盤薬師」と呼ばれ、常盤御前が今若、乙若、牛若の3児の成長を祈願したと伝えられています。
また境内には、常盤御前が大和に逃れる際に雪の降るのを避けた「常盤御前雪除けの松」の残株があります。
寶樹寺の向かい側には石地蔵の祠が。
東海道線の上を越えます。
鴨川沿い。
美しいシダレザクラの花が!
各地から桜の花の時期に京都に来る人々は「こんな風景を期待しているんだろうな」ってことがとっても納得できる風情。
シダレザクラの長いトンネル。
小雨が降ってきました。
シダレザクラとユキヤナギの競艶。
天気が回復。
鴨川沿いの遊歩道へ。
まさに京都の風景です。
南座。
四条大橋東詰めの阿国(おくに)像。
鴨川畔は歌舞伎発祥の地とされ、出雲出身の阿国がきりりと男装して踊る姿に人々はさぞ拍手喝采したことでしょうね。
鴨川左岸をドンドン北上。
花桃の花も満開。
可憐な桜の花。
北上するにつれ、濃い色の桜の花に。
「京都に住んでいてよかったな」と心から思います。
最高の風情。
若松通り・・・。
そう言えば、若松孝二監督が「実録・連合赤軍 あさま山荘への道」という映画を莫大な自費を投入して制作しましたね。
その映画はもう公開されたか、あるいは間もなく公開されるはず。あさま山荘事件を警察側ではなく、当事者に徹底的な取材を行なって「内部で何が起こっていたか」に焦点を当てた作品だとか。
私もとっても気になりますので、可能であれば映画をぜひ観てみたいなと思います。
鴨川の川面を見ながら語り合うカップル。
上空を飛び回るトンビの群れ。
速い動きなのでなかなかうまく写真が撮れません。
このトンビ達は、川沿いで食べ物を持っている人から食べ物を奪うようになり怪我人まで出ています。
この日は、カラスや鳩を追い掛け回していました。
トンビがとっても意地悪で乱暴になったのは、猛禽類であるトンビに人間が安易に餌を与えたからだとか。(;一_一)
荒神橋を渡ります。
荒神口交差点。
高野悦子さんがよく通っていたジャズ喫茶「しあんくれーる」があった場所は今では小さな駐車場になっています。
立命館大学・広小路学舎からポツンと離れた場所にあった恒心館。
学園闘争で封鎖されていた時期には、高野悦子さんもここに何度も足を運んでいました。
今では府立医大の医学部看護学校になっている、旧・立命館大学広小路学舎跡。
この地にかつて存在した立命館大学広小路キャンパスはもうとっくになくなり、学園闘争の嵐の時代に青春期を過ごした当時の青年達も今やメタボを心配しつつ停年を迎え始めているそんな時代に。
当時の若者達(私も含めて)が汗と涙そして時には血さえも流し熱き青春時代を過ごした場所がここであったことが、この案内碑でかろうじて確認できます。青春万歳!!
団塊世代の諸君!胸を張って第二の人生を構築していきましょう。
♪砦の上に われらの世界 築き固めよ 勇ましく〜(「ワルシャワ労働歌」より)
マルクスでもなければレーニンでもない。かつて実現できなかった「われらの世界」を今こそ構築しようではありませんか。
その「われらの世界」とは何か?何でもいいのです。我々の青年期の正義感に基づいた行動の延長であればその内容は何でも可。
要は「ただのシルバー世代にはならない!」ってこと。
管理職やそうでなかった者を含め、発言のしがらみがなくなったうるさい世代の誕生。
「沈黙する羊」を脱する時期が団塊の世代にやって来ました。
悪政に対して「お上がするから逆らえない。」と思うか否か、あるいは悪政に反発して自分でできる範囲で行動するか しないか。
まさに、かつての青春が今問われているかと。
godzillaが籍だけは8年間も置いていた立命館大学。
そのキャンパス跡を懐かしく眺めます。
立命館大学広小路キャンパスに隣接していた廬山寺(ろざんじ)へ。
廬山寺境内に残る御土居(おどい)跡。
梨木神社へ。
境内に湧く名水「染井」は京都三名水のひとつ。
地下水の豊富な京都。
その京都の地下水の埋蔵量は琵琶湖の水量のおよそ8割にも達するとされています。
京都御所着。
御所内の児童公園近くにあるシダレザクラはもう満開を迎えていました。
以下、どうぞ御所内の素晴らしいシダレザクラの花をお楽しみください。
シダレザクラを見終わりました。
とっても変わった松の木を発見。
木の上半分はまるで「因幡の白ウサギ」のよう。
御所内を南進。
途中でまた雨が降ってきました。
東の方を見ると虹が!
桃林へ。
きれいな桃の花!
逆光で。
逆光も効果的に使えばいいもんなんだなって最近は思えます。
閑院宮邸跡。
新しく建設された建物のようです。
見学は自由のようだったので見たかったのですが既に時間がオーバー。
公開時間は終了。(T_T)
木蓮の花。
ドンドン南進して今出川通りへ出てしまいました。
蛤御門に寄りたかったのでUターンし蛤御門へ。
閉じられていて決して開くことのなかったこの門が、1788年の天明の大火で犠牲者を少なくするために初めて開門。それ以来この門は、焼けて口を開ける蛤に例えて「蛤御門」と呼ばれるようにないました。
「蛤御門の変」の激戦地だったこの辺り。
門には今も当時の弾痕が残ります。
護王神社へ。
私の結婚式の際には、ここ護王神社から神主さんが来てくださいました。
ここ護王神社は「狛イノシシ」で知られています。
境内へ。
境内のイノシシグッズ。
中には本物のイノシシの剥製まであります。
護王神社をデザインした10円札。
「兌換券」なのが凄いですね。
私達が今使っているいるお札は「不換券」ですので、いくらお札を持っていても世界共通の価値を持つ金(きん)には換えられませんが、兌換券はお札を金(きん)に交換することが可能だったのです。
10円札の説明。
護王神社をあとにして菅原院天満宮神社へ。
参拝します。
境内にある住居から出てこられた神社の方が私の姿を見つけて会釈されました。
財布から出したお賽銭の金額を増やすことにします。(^_^;)
道真公の産湯の井戸が!
これがその井戸跡!
菅原院天満宮神社をあとに。
かつて高野悦子さんがよく行っていた「青木書店」跡にあるマクドナルドの店。
新風館前通過。
日没近し。
京都駅近くの観光旅館。
庭園がとっても素敵。
日没時の京都駅前。
京都タワーを見ながら帰路に。
山紫水明の地・京都。
そんな京都の素晴らしい桜の風景を求めて、日本各地から多くのお客様が来られる時期になりました。
だけど京都に住む私達は、日々移り変わる京都の桜がある風景を居ながらにして楽しむことができます。
今の時期には、「京都に住んでいて本当によかった!」ってより心から思えます。
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