今日は用事があったのでどこにも行きませんでした。
夕刻にパート勤務を終える妻を迎えに行きましたが、時間が少しあったので「木幡火薬製造所」の専用鉄道の引き込み線跡を歩いてみました。

本日のウオーキング歩数、5,055歩。

2008年9月6日(土)




「木幡火薬製造所」の専用鉄道の引き込み線跡ウオークの起点はJR奈良線・木幡駅。



JRの線路の西側のこの部分が引き込み線跡。
北に続いています。



木幡緑道へ。
この緑道が引き込み線跡。



しばらくはJRの西側に沿って北上。



道路へ突き当りました。
左前方の緑が線路跡。
引き込み線はここから北西に伸びていきます。



引き込み線跡ということが一目で分かります。
日露戦争開戦と同時に火薬の増産が必要になり、日露戦争開戦2年後の1906年に宇治火薬製造所木幡分工場が建設されました。
そして硝煙のにおいが充満するような時代が続くのと連動して工場は次第に大きくなっていきます。



引き込み線跡はここで行き止まりに。
生活道路を通すため、この先で線路跡は切り取られています。
ここでUターンしもと来た道へ。



こんな状態で引き込み線跡がザックリと削られています。



この線路は隠元橋あたりまで延びていたと思われます。
黄檗本工場と木幡分工場は、隠元橋あたりで人力トロッコ軌道でつながっていたのです。



後を振り返ります。
草丈が膝あたりまであり非常に歩きにくく、この線路跡の探訪は冬に限ると思いました。
宇治火薬製造所木幡分工場というからにはこのあたりに工場があったように思えますが、そうではなく分工場は今の公団桃山南団地一帯にありました。
桃山南団地には今でも大きな松の木が多く残っていますが、その松の木は火薬の爆発に備えて植えられたものなのです。



一ヶ所だけ背丈の高い草が生えていない場所が。
あの場所は下に道路が走っていて築堤が途切れている場所なのです。
土が少なく草丈の高い草は生えることができません。



道路を見下ろします。
足の下が道路だと思うと少し怖くなってきたので、ゆっくりと歩くことに。



線路跡を後にして道路へ。
道路から線路跡を見上げます。



この上を、かつて火薬を満載した列車が走っていたとは・・・・・。



この構造。
何度見ても愛宕ケーブルの線路跡とよく似ていると思います。



芙蓉の花が。
線路跡脇の細い道路を進みます。
草があまりにも多いので線路跡を歩くのはもう打ち切りました。



京阪電車の線路をくぐります。
高さが1.2メートルしかないのに、結構頻繁にバイクが通り過ぎるます。
それもバイクを押すのではなく乗ったままの通過なのです。(@_@。



現存する線路跡の終点。
ここで製造されていた火薬は、西日本の軍需工場最大拠点だった大阪砲兵工廠(大阪城跡)、それに太平洋戦争頃に増設された祝園弾薬庫、あるいは枚方製造所・香里火薬庫などに運ばれ砲弾が製造されていたのです。



線路跡の終点付近にある工場。



線路跡はここから先は姿を変え道路として残っています。
この先は宇治川。
大平洋戦争開戦4年前の1937年に起きた黄檗本工場の火薬爆発事故では、猛烈な爆風と炎が宇治川を越えて左岸にまで押し寄せたそうです。



今まで歩いてきた道を振り返ってみます。
そして過去の歴史もちょっぴり振り返ってみることができました。



Uターンします。
百日紅の花が咲き誇っていました。
暑い暑い夏でしたが、その暑かった夏ももう終わり。



さて、妻を迎えに行こうっと!




身近に残る戦争遺跡。
とっても貴重だなって思います。



ホームに戻る










































inserted by FC2 system